暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator) | 國分 功一郎 |本 | 通販 | Amazon

著者
國分 功一郎 (著)
価格
満足度
⭐️⭐️⭐️⭐️
カテゴリー
評論
作成日時
Oct 22, 2023 05:12 AM
ステータス
読了
 
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メモ
  • 退屈には三つの段階が存在する。
    • 一段階目は、退屈な理由が明確なこと。暇であってかつ退屈である。あと20分後に電車が来るというが、集中するには不十分で面白くないという現象
    • 二段階目は、退屈なことを気晴らしするためのその気晴らしが退屈。気晴らしための趣味が終わってからなんとなく退屈だなと思うとき
    • 三段階目は、なんとなくよく分からんが退屈だということ
  • この中で、第一段階と第三段階
 

感想

僕らは、すぐに退屈から逃れたりしようとするのだが、それは本当に幸せなことなのか。退屈から逃げるということは、その際に自分で意識的に選択することのできる自由さを失って、自己喪失に甘んじているのではないかということ。退屈な状況でその退屈を気晴らしにすることはすばらしいことである。そうではなく、時間というものは消費する必要があり、その消費される時間の中で自分自身の時間をどのように活用するのかという、資本の論理に妨害された思考のパターンを持っている限りは、どの道自分自身の幸せな時間というものは掴むことができないのではないだろうか。
これとよく似た主張をこの前見つけた。それはパブリックスピーカーである山口周氏の言葉のメッセージに「インストルメンタルからコンサマトリーへ」というメッセージがある。つまり、自分自身の時間を未来を掴むための道具として使うのではなく、今のこの瞬間を楽しもうということである。